「あくび指南」の魅力

あくび指南は、自分が落語にハマるきっかけになった噺です。そして、それは、この噺が持つ「粗忽性」にあると思っています。

「粗忽性」というのは自分の造語なのですが、通常の論理性からかけ離れたところにあり、かつ、なぜか直観的に整合的だと思えてしまうような、とても不思議な感覚のことを指しています。イメージするのは夢のなかの超論理性です。夢のなかでは、現実世界ではおおよそ納得しえないようなことでもなぜか納得できてしまったり、よく理路はわからないが猛烈な感情に襲われたりします。冷静に考えればなにも怖くないのに、夢のなかではひどく恐ろしく感じられる悪夢などもそうです。

落語にある粗忽噺は、単に思慮の足りない人や極度にうっかりした人間の噺として捉えるよりも、そうした独自の論理性がある人の噺として捉えるほうが自分は好みです。そして、その独自の論理性が世界のほうにあるとき、噺は不条理劇として展開することになります。

自分は当代馬生のあくび指南が一番好きなのですが、その世界においては、八っつあんは(基本的に)正常な判断力を持ちつつも、不条理な世界にどんどん流されていってしまいます。その一番の象徴が、序盤に一瞬だけ出てくる、あくびの師匠の女房です。演者によって、あくびの稽古に行く動機になったり、逆に省かれたりする存在ですが、当代馬生のあくび指南においては、あくびの稽古に行ったらたまたま出てきた存在であり、それ以上何の役割もない、という存在です。つまり、ストーリー上はほとんど何の役割も持っていない存在なのですが、この女房に役割を持たせない、ということ自体が、その世界の不条理性を象徴していると思うのです。

一度、芸としてのあくびという「粗忽性」のある世界が展開されてしまえば、あとは大した出来事が起こらなくてもすべてが不条理として展開します。八っつあんがしている稽古は芸ごとの稽古としてごく真っ当なものですが、あくびを稽古しているという事態がすでに100%不条理なので、至上の「粗忽感」が味わえます。当代馬生のあくび指南はこの稽古のシーンがとても現実の稽古感とリンクしていて、八っつあんが気づきを得ながら少しずつ上達していくさまは「その感じわかる!」という感覚を得られますし、その点で不条理な世界とリンクしている自分を見出して可笑しな気持ちになります。あくび指南はもっと整合性を持たせた解釈の演出をする噺家が多いのですが、このわけのわからない世界の魅力は何にも代えがたいと思ってしまいますね。

「反魂香」の魅力

反魂香、おかしくて寂しくてジンときて、とにかく好きな噺です。

先立った女房を想う後半は、重たくやろうと思えばいくらでもじっとり重くなりそうですが、軽くやるのがやはり落語の美学なのでしょうか。しかし、その諦めを伴った軽さのなかに、却って女房を想う気持ちが強く染み出ているように感じます。女房に想いを馳せるパートは演者それぞれの馳せ方で、女房の幽霊がどんな風に現れるのか、という想像も含め、演者が人を想うときにどういうところに着目するのか、という違いが出ていて面白いです。

女房への愛情を吐露するという点では替わり目にも通じるところがありますが、いま現に生きている女房に対するそれと、先立ってしまった女房に対するそれでは大きな違いがあると思います。噺の後半は、女房にもうすぐ会える、という八っつあんの期待が推進力となっていますが、そこで独り言として染み出しているのは、不在である女房に対する想いであって、たとえば、生き返り再会する存在としての女房に対するそれではありません。女房に対して焦がれつつ諦めつづけてきた男の思考であり、そこに強く寂しさを感じます。そもそも、亡き女房の幽霊を呼び寄せるために深夜にひとりトライし続ける、という行動自体、おかしくもとても寂しい感じがします。おかしさがベースにあって、寂しさと諦めが、落語の持つ軽さとして昇華されているのが、反魂香の後半シーンであると感じています。